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他人にかかわることは怖いことなのか

先日、朝から病院に行ってきました。

電車の中はぎゅうぎゅうとはいかないまでの満員電車。

奥に入って座席の前に立っていました。

すると、急に隣のお姉さんが、ふう~ら、ふう~らし始めました。

何が起こったかわからないでいると、目の前に座っていたおじさんとお姉さんが「大丈夫ですか」といい、立ち上がりました。

「とにかく座りなさい」

とおじさんがお姉さんの肩をつかんで座らせようとしますが、それもままならず答えられず。

そうこうするうちに次の駅が近づき、おじさんは「降りるか」と聞き、お姉さんが小さくうなずいたのをその場にいるみんなが見届けました。

そこからがすごい。

おじさんの隣の方がお姉さんを引き取り支え、またその次の方が支え、みんなでバケツリレーのように支えながらドアまで来ると、ドアのそばに立っていた方が二人で、そのお姉さんを駅のホームのベンチまで連れて行くと、二人はベンチに寄り添い、駆け寄る駅員さんに事情を説明したのです。

電車は無情にも二人を置いて発車してしまいましたが、気にしないご様子。

発車した後の車内は、また元の他人に戻っていきました。

 

あっという間の出来事でしたが、「大丈夫ですか」と声をかけることしかできなかった、という私の残念な思いは置いておいて、朝の殺伐とした、一分一秒を争う通勤電車の中で、これだけこの人を助けたいと一致団結したことの驚きと、最後の二人のさらりとした覚悟と勇気に、かっこいいなぁと思ってしまいました。

 

座りなさいといったおじさんも、かっこいいなぁ。

 

実は、日本人は優しいと言われているけれど、ほんとにそうかな、と思っていたのです。

見ず知らずの他人にものすごく冷たい部分もあるのでは。

それは、冷たくしてやろう、という意思ではなく、「余計なお世話」「ありがた迷惑」への恐怖のようなものではないかな、と思っていました。

だから、質問すれば優しく返ってくるし、かかわると決めた相手はとことんもてなす。でも、知らない人は話しかけるだけでびっくりしてしまうだろうなと予想がつくから話しかけられない。

ロンドンに住んでいた時、おせっかいは日常茶飯事でした。重いスーツケースを運べば、階段で紳士が運んでくれ、おばあちゃんが歩いていれば段差でみんなが助ける。

そこに勇気はなかった。

かっこつけもなかった。

狭ければ狭いといい、楽しければ笑い、うっかりがあったら、見ず知らずの他人と目を合わせて「やっちまったよ」と笑う。そこに言葉もいらず。

 

この違いは何かなーと思っていたのです。

 

テレビで日本って優しい、日本っておもてなし、日本ってまごころあふれる、なんていわれるたび、とっても違和感を感じていました。

私がロンドンで会った、どの国の人も、優しくて、おもてなし精神が素敵で、まごころに感動したのだから。

でも、テレビで言葉が強調されるごとに、きっと優しくて、おもてなしの気持ちを持ってまごころあふれる日本人像が、逆に日本人を窮屈にして偏屈にして、排他的になってしまっているのではないか、と思うのです。

「余計なお世話」「空気が読めない」「ありがた迷惑」という言葉が怖くなって何もできなくなってしまっているよう。

 

だから、今回のみんなで助けたお姉さんは、とっても新鮮だったのです。

ほんとは車内で、「お姉さん、大丈夫ですかねぇ」なんて話が出来たら、良いなぁなんて思いましたが、やっぱり終わった後は他人になってしまいました。

 

ほんとうは一人一人気持ちのある人達なんだよな。

あの瞬間だけ、色鮮やかに、それが見えた気がしました。